【第四回】

第四回目は、2017年4月に中之島図書館の中央ホールにてコンサートを開催していただきました、
歌手・朱夏さんにお越しいただきました。
歌手として、女性として、また母親としての朱夏さんの魅力にせまっていきます。

聞き手は株式会社アスウェル専務取締役 黒川 哲子

生い立ち

黒川哲子

本日は歌手・朱夏さんにお越しいただきました。
昨年春の中央ホールでのコンサートは大変感動し、また朱夏さんの心豊かなお人柄 が本当に好きで今回は初の女性インタビューとなります。

朱夏

女性で初なのですね。緊張しますが、とても光栄です。

黒川哲子

日本人がもっている良い所を全て兼ね備えている方だと私は感じています。まずは朱夏さんの生い立ちに辿りたいのですが。

朱夏

1959年に滋賀の山奥の旅館を営む両親の元に産まれました。春には家の周りの茶畑で茶摘みをし、
着る物全ておばあちゃんが繭から糸取りをして機織り機で織って布から作るという全てが自給自足の生活でしたね。

黒川哲子

今から思うと“なんて贅沢な”ですね。長浜は絹やパッチワークで有名ですよね。

朱夏

そうですね。冬の間は仕事が少なくなるので、夏の間におばあちゃん達がひたすら機織りをして貯金をして暮らしていました。
着るものは親子三代で大切に着ていました。

黒川哲子

うちも同じでしたよ。分家でしたが、廻りは同じ状況でしたね。
三代くらい着て着古したら使えるところだけ座布団にして使ったりと、絹は長持ちするので大切にしていましたね。

朱夏

余り生地でお手玉を作っていて、小さい頃から何でも手作りする家でした。

黒川哲子

幼少の頃からの体験で朱夏さんは何でも器用にされますよね。歌う時の衣装もご自分で作られていて、お子様のお弁当も毎日彩り良く作られていますね。

朱夏

料理は大好きです。作りすぎて娘には栄養過多で太る!と言われるほど(笑)。余っても誰かとシェアすればいいと思って、たくさん詰めてしまうのです。

黒川哲子

素敵なお母さんです。

歌手として

黒川哲子

歌うことを始められたのは、記憶ではいつ頃が始まりでしたか。

朱夏

3歳の頃からです。実家の旅館に宴会場が八つほどありまして、当時はもちろんカラオケなんてなくて、
太鼓と三味線がおいてありました。それで必ず誰かが『お座敷小唄』や『炭坑節』を歌い始めるのです。
民謡の流行歌を歌い始めると小さかった私は夜も寝ないで隙間からよく覗いていました。
お客さん達が気付いて「お嬢こっちおいで」とお座敷に呼ばれてジュースを飲ませてもらえるので、
覚えたての歌をうたって見せると大人達が喜んでくれるから、ますます歌うようになって。

黒川哲子

それはもう可愛くて仕方なかったのでしょう。

朱夏

お座敷で歌う用に新しく着物をこしらえてもらいましたね。家がライブハウスでした。

黒川哲子

『歌う』という環境に恵まれていたのですね。

朱夏

自然に音楽(リズム)に慣れ親しめたというのはあります。学生時代は標高何千mという山奥の旅館から、
自転車で13kmの山道を通学することで自然に体が作られたおかげで今でもすごく健康です。

黒川哲子

それが歌うための身体の基礎にもなっているのでしょうね。幼少期・学生時代と歌われてきて、歌手の道に繋がったきっかけは何になるのでしょうか。

朱夏

高校を卒業してからもずっと音楽が傍にいました。
大学受験の時に、先生から音大をすすめられましたがクラシックではなく、3歳の時に心打たれた流行歌手に私はなりたかったのです。
大学に入ったら好きなことをやっていいと両親に言われたので、進学してすぐYAMAHAのコンテストを受けました。
当時のコンテストはどれも合格して、大学時代はずっと歌っていました。

黒川哲子

すごいです。ずっと歌うことをつづけられたのですね。

朱夏

はい。私が24歳の時に、心斎橋の日航ホテルの32Fにジェットストリームができまして、ラウンジで生音楽を流すのにオーディションがありました。
音楽家、服部克久さんのプロデュースでしたね。
バブル期の前で年間1500~2000人の応募者の中から毎年3人ずつ選ばれるのですが、2年目にテープ審査で受かりました。

黒川哲子

その時は何を歌われたのですか。

朱夏

スタンダードジャズです。レギュラージャズシンガーになると、曲のレパートリーが100曲では足りなくて、
オーディション後に社員教育プログラムというのがあり2週間の合宿で最低80曲を覚えなさいと言われて大変苦労しましたよ。
1年間で200曲以上を覚えました。

黒川哲子

ジェットストリームという場所の名前は当時よく耳にしていて、憧れていました。

朱夏

3年間在籍していました。週末のメインステージを受け持つようになった時、東京から有名な歌手の方々(伊藤ゆかりさんやサーカス、米米CLUB、海外からはコニーフランシスなど)がゲストできて一緒にショーに出演しました。
いつも超満員で、とても良い時代でしたね。

家族のこと

黒川哲子

小さな頃からずっと歌われてきた朱夏さんですが、歌をやめられた時期がありますね。

朱夏

そうですね。40歳の時に、育児に専念しようと思い歌うのをやめました。
実は次女が発達障害で生まれ、小学生にあがるまで彼女は言葉が話せなく、私の人生で一番ショックな事でした。
『自閉症スペクトラル』と診断されて、もちろんお医者様にもかかっていましたし、自分で海外から関連書を取り寄せて自閉症についてとことん調べました。
「自閉症だったわたしへ」という有名な本があるのですが、それを読み自閉症の子たちは〈他人〉という認識ができなく〈自分〉のこと、自己分析はできるのがわかりました。
今日は誰に会って何をして何を言われて何がだめだったのかと自分に問いかけて解決していく。
病気と思わずに脳みその単なるタイプの1つだと考えて、今の娘の脳の状態が発達過程であればこの先には、話せるようになるのではないかと医師に伝えたほどです。

黒川哲子

娘さんととことん向き合われたのですね。

朱夏

小学4年生になり「お父さん」「お母さん」とちゃんと言えるようになりました。
そこから高校受験を念頭において、普通の子との約10年のブランクを埋めるために、小学校1年生からの勉強を中学3年生までひたすら自宅で行いました。
結果、高校に入学してAO入試ですが美大に入りました。

黒川哲子

目標を持たれて結果に繋げられたのですね。

朱夏

今では何が良くて何が悪かったのかは解かりませんが、彼女の中の1人称の世界を立体的な物事として考えさせながら2人称/対話を理解できるまで延々と付き合いました。
徐々に発達して行き、第2次成長期の高校2年生の時には、自閉症の子が最も苦手と言われている国語(読み取り)のテストをクラスで1番を取ったのですよ!
驚いて先生に「カンニングしてないですか?」と思わず聞いたくらいです(笑)。
人間の可能性が0ではないと実感しました。

歌手として復帰

黒川哲子

歌をまた始めるきっかけとなったのは何ですか。

朱夏

昔、YAMAHAのポプコン(ポピュラーソングコンテスト)にエントリーしたことがあって、その当時の仲間が50歳を過ぎて半分同窓会みたいな形で、ライブをやらないかと声をかけてもらって。
次女が高校進学をして、子育てに少し余裕が出てきた時で54歳になっていましたが、勇気を出して京都の大きなライブハウスで歌いました。
現役で活躍している仲間と一緒に舞台に立てるのが嬉しくて。そのライブの翌日に観客として来ていた業界の方から「うちで歌ってください」とオファーをいただいたのです。

黒川哲子

子育てで歌から離れていた間はご自宅で練習はされていたのですか。

朱夏

いいえ。未練が残るので一切歌っていませんでした。

黒川哲子

やはり3歳から身体に歌が染み込んでいるからこそですね。中之島図書館の中央ホールでコンサートを開いていただいた時も圧倒的な歌唱力に感動しました。

朱夏

あの時は楽しかったです。吹き抜けのドーム型の天井に天然のエコーがかかって不思議な感覚の中歌わせていただきました。マイクを通すと音が回ってしまうので、マイク無しで歌いましたね。

黒川哲子

聞いている我々の所に朱夏さんの歌声が降り注いでくる感覚を味わい、幸せな気持ちでした。
今後はずっと歌い続けていかれますか。

朱夏

はい。もうすぐ還暦なのですよ。私の周りで70・80歳を過ぎて現役で元気に歌い続けている人たちって一握りです。
なので、歌い続けていくことは私の人生の挑戦です。今はようやくレパートリーが1000曲をこえました。
残り80歳までに、500曲は覚えて歌い続けたいと思います。

黒川哲子

朱夏さんの前向きでバイタリティあふれる言葉を聞いて、こちらまで嬉しくなります。がんばって下さい、いつまでも応援しています。

本日のゲスト

朱夏 女性ジャズシンガー
写真:歌手・朱夏